島原について
かつて京都に存在した、もうひとつの花街
かつて京都に存在した、もうひとつの花街
島原とはどんな場所だったのか
京都には現在、舞妓や芸妓の文化が息づく「花街(かがい)」が存在します。
上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町――
これら五つの地区は 京都花街組合連合会 に加盟し、「京都五花街」と総称されています。
※この五花街のひとつ 宮川町 には、当店「心-花雫-」もございます。
しかし、かつて京都には、この五花街とは異なる、もうひとつの花街が存在していました。
それが 島原(しまばら) です。
■島原とはどんな場所だったのか
島原の正式名称は 西新屋敷(にししんやしき)。
京都駅から北西に位置し、江戸時代には 公許の遊廓・花街 として栄えました。
島原は、1976年まで京都花街組合連合会に加盟しており、祇園とは異なる独自の格式と文化を持つ街でした。
特筆すべきは、島原が 皇族や公家、貴族をもてなす花街 であったこと。
そこで活躍したのが、当時、女性に与えられた最高位とされた 太夫(たゆう) たちです。
現在も太夫の制度は残っていますが、その数はわずか 4〜5名ほど。
島原は、太夫文化を今に伝える、貴重な場所となっています。
■島原という名の由来
島原という名称の由来には諸説ありますが、有力とされているのが、
度重なる移転騒動の様子が「島原の乱」を思わせた ことから名付けられた、という説です。
その名が示す通り、島原は決して平穏な歴史だけを歩んできた街ではありませんでした。
島原に残る、三つの史跡
現在の島原には、当時の面影を今に伝える場所が、わずかに残されています。
■ 島原大門(しまばらおおもん)
島原の正門として建てられた 島原大門 は、花屋町通に面し、日本最古の公許遊廓の入口でした。
かつて島原全体は堀で囲まれ、この大門を通らなければ出入りできなかったといわれています。
これは、治安の確保と遊女の逃亡を防ぐための仕組みでした。
現在の大門は、幕末・慶応3年(1867年)に建てられたもの。
この門の下を、幕末の志士や新選組が行き交ったと考えると、歴史の重みを感じずにはいられません。
■ 輪違屋(わちがいや)
輪違屋は、日本で唯一、太夫を抱える置屋 として知られています。
現在は置屋兼お茶屋として営業していますが、かつては置屋専門の建物でした。
家紋には「輪違い紋」が用いられ、外敵の侵入を防ぐため、二階の屋根には竹が設置されているという特徴もあります。
通常は非公開ですが、内部には桂小五郎の書や、新選組・近藤勇の書を仕立てた屏風、太夫の打掛などが残されていると伝えられています。
また、輪違屋の抱えであった 桜木大夫 は、伊藤博文と深い関係にあったともいわれています。
■ 角屋(すみや)
角屋は、置屋から太夫や芸妓を招き、歌舞音曲を伴う宴を行った 揚屋 です。
現代で言えば、料理屋・料亭にあたる存在でした。
現在は「角屋もてなしの美術館」 として、期間限定で一般公開されています。
館内には、松尾芭蕉の俳句短冊や、与謝野蕪村による紅白梅図屏風などが展示され、奥の「松の間」では、
新選組ゆかりの逸話などもガイドから聞くことができます。
幕末には、久坂玄瑞、西郷隆盛、坂本龍馬らによる密談の場としても使われていました。
■島原の衰退と、その後
明治維新後、大規模な宴席の需要が減少したことや、立地条件の変化もあり、島原の街は次第に衰退していきました。
その後、京都の花街文化の中心は祇園へと移り、島原は静かに歴史の表舞台から姿を消していったのです。
■島原を知ることで、花魁の世界は深まる
島原は、花魁や太夫という存在が、どのような場所で、どのように生きていたのかを今に伝える貴重な街です。
花魁体験をより深く味わうためにも、かつての花街・島原の歴史に、ぜひ思いを馳せてみてください。


